四国歩き遍路日記46日目。この旅の記録は以前、統合失調症の僕が歩きお遍路の旅をしながらその場で公開していた日記ですが、諸事情により公開を辞めてしまったものを再編集したものです。
本日から徳島編という言葉を追加しました。以前に書いた記事にも後に「徳島編」という言葉を追加しようと思いますが、その話はまた今度する事にして、今回は重要な事を先に言わねばなりません。
今回の内容は「死」について触れます。人によっては拒否反応を起こすと思います。死は忌み嫌われるもので、深くは語らないというのが現代人の常識になっています。
それは日々の生活を快適に暮らすために必要な事であり、僕もその通例に救われてきた所がありました。
ですが、今回の旅で僕が体験した事は、これからの僕の人生の考え方を根本から動かす事でした。生と死についてわかったつもりでいた僕の考えをぶっ壊していったのです。
その事について語るためにはどうしても、「死」について語らねばなりません。「生」ばかり語った所で、わかった「つもり」から抜け出せない。
なので、もしもあなたが今、その情報を受け取る準備が出来ていない段階であれば、これから先は読まないでください。今日の日記を読まなかったところで、次回からの内容がわからなくなるという事はないようにしますので。
ではでは、覚悟の上で再編集版よろしくどうぞ。
四国歩き遍路日記46日目のまえがき
四国歩き遍路日記46日目になった。ここでの生活は不思議なものだ。数日前にあった何気ない事が、よく出来た推理小説のように、伏線を回収しにやってくる。
「噂をすれば影」なんてことわざがあるけれど、本当にそのとおりなのだ。
何気なく見ていた物も、自分には関係ないと聞いていた音も、突然自分の問題として身に降り掛かってくる。
ここは四国、徳のある島。
四国遍路に来てみた僕だけれど、歩かずに不思議な出来事に出逢ってばかりだ。今日の出来事も、きっと弘法大師さんが僕に何かを教えてくれようとしている事に違いない。
空海はここで出会うすべての人に乗り移っているなんて事を初期の頃に考えていたけど、久しぶりにその事を思い出した。
そんな一日をこれから紹介していこう。
→他の日の四国歩き遍路日記はこちらにまとまっています、合わせてどうぞ。
※復刻にあたり、旅先で沢山写真を撮ったものをアップすることにしました。Facebookの方へ高画質のアルバムを作りましたのでよろしければ御覧くださいませ。
ぎりぎりの1.5
起床6:30。いつもよりちょっと寝坊してしまった。今日はあねさんが実家に帰っている日なので朝ごはんの準備などは僕がせねばならない。この寝坊はちょっと痛いぞ。
そもそもこの寒さはなんやねん。昨日は寒さに負けないなんて言っていたけれど、布団の中でモゴモゴしてしまったではないか。僕はなんとか布団から抜け出し、外に出て温度計を見に行った。
1.5℃。昨日が3℃だったから更に下がっている。氷点下になるのもすぐ目の前のことなのかもしれない。
とにかく体が冷たすぎて上手く動かないので、棒で素振りして体を温めようと思う。昨日の妄言のような茶番をやる余裕はない。とにかく体を温めて早く朝ごはんの準備をせねば。
素振りもそそくさと引き上げ、お湯沸かしに移行。ストーブをつけようとしたが、なかなか火がつかない。こりゃー灯油がないのかもしれないなと確認すると案の定。
灯油を給油する為に再び外へ。手がかじかんでしまって上手く灯油缶のキャップが回せずに困る。それにしてもやっぱりこのホースは便利だ。こういう寒い時にこそ、そのありがたさを実感する。
その後の事は毎日のルーティンを行っただけなのでここでは割愛させていただこう。
イノシシを食べる
さてさて、毎日のルーティンを終えて炊飯器のタイマーが鳴る頃、先生が起きてきた。朝食にしよう。ご飯はなかなか美味しそうに炊きあがるものだ。このパカっと開けた瞬間の湯気ってたまらんよね。
しゃもじを使ってごはんを底から裏返していく。なんか昔お父さんにコレをやれって教わったんだけれど、コレって何の意味があるんだろう。お米が立つっての?
意味がわかっていないけれどとりあえずやってしまう習慣ってのは結構多い。
おかずなどはすべてあねさんが事前に準備してくれたものだ。味噌汁と焼き鮭と八頭。本来はそれだけだったのだが、先生がそれでは味気ないという事で缶詰を二つ出してくれた。
それがいわしの味噌煮とイノシシ肉の缶詰である。
イノシシ。
一度も食べたことない!!
それにしても、だいぶ年季の入った箱だ。
賞味期限を見ると1年以上過ぎているのだけれど、缶詰だし大丈夫だろう。僕はそういうのは気にしない質だし、賞味期限が切れたからと言って食べないのはイノシシに失礼な気がするものね。
いのししは昔からぼたん肉として有名です。そのぼたん肉のおいしさを損なわない様みそ仕立てで筍・生姜と一緒に大和煮に造り上げました。一家団らんお召し上がり下さい。
と書いてあった。
先生は馬肉はさくら肉、鹿肉はもみじ肉、イノシシ肉はぼたん肉と呼ばれている事を教えてくれた。馬肉がさくら、イノシシがぼたんであるのは知っていたけれど、鹿が紅葉なのかー。おしゃれだなぁ〜と思った。
そういえば、ここに来て間もない頃に、缶詰で鹿のお肉を食べさせてもらったのを思い出した。本当に色々な経験をさせてくれるなぁ。ありがたや、ありがたや。
イノシシがぼたん肉と言われる理由
ちなみにこのイノシシとか馬、鹿にだけ別名があるのは江戸時代には獣肉を食べるのは禁忌だったからだね。生類憐れみの令って歴史で習ったけれどアレの影響なんだそうだよ。
まぁ、豚とか牛はそもそも食べるっていう概念があまりなくて、文明開化で牛鍋がブームになるまでは肉と言ったらイノシシとかシカ、馬などだったわけです。
んで、その動物たちが生類憐れみの令のせいで食べちゃいかんぞ!となってしまった。そうなると今までそれらで生計を立てていたお肉屋さんは困ってしまうことになる。
そこでお肉屋さんは薬屋さんに変身して、滋養強壮に効果あると豪語してお肉を売ったわけ。薬であるなら仕方がないと幕府は黙認。
だって人々の健康に影響があるのなら、それを禁止してしまうと年貢が取れなくなっちゃうからね。でも生類憐れみの令はあるわけで、建前上それらのお肉には隠語を使うようになったというわけです。
あ、蛇足ですが、なぜさくらやぼたん、紅葉なのかは諸説あるようで調べてみると面白いです。
桜は花が咲いた後に葉が出る。馬は鼻の後に歯が出てる(出っ歯)なんてダジャレ的ものや、花札に鹿が描かれている札には紅葉が描かれているみたいな庶民的なもの、唐獅子牡丹図のシシとイノシシをかけているみたいな芸術関連のものまで。
こういう由来とか元祖関連なものは後付でなんとでも言えてしまうので、どれが本当かの判断は難しいですが、江戸の人々の苦肉の策だったのが面白かったです。
…あ、苦肉の策って本来は苦し紛れの意味はないそうですが、それを語りはじめてしまうと話が長くなってしまうので省略。気になるあなたは苦肉計で検索、検索!
イノシシの缶詰は大和煮だったので、大和煮の味でした。缶詰って煮ちゃうと肉本来の味がわからなくなるよね…。缶詰あるある。また今度ちゃんとしたイノシシ肉を食べてみたいものだ。
ジビエ、ボンバイエ!
小屋掃除の続き
さてさて。朝食後は昨日に引き続き小屋の掃除をさせてもらう事になった。たけのこハウスの掃除が中途半端で終わっていたからね。
僕は昨日とは反対に、この小屋にあるものをすべて昨日掃除し終えた小屋へ移し、たけのこハウスを空の状態にした。そしてそこを一気に雑巾がけ!!
ここの床はかなりしっかりした材木なので磨きがいがあるぜ。
…。
磨き終えたあとに「あ、掃除機かけるの忘れていた」と思い出した。
でもあれよね。昨日の段階で掃除機かけたから別に一日経ったからってホコリはたまらんよね?だって今までは何ヶ月も掃除していなかったのだし一日ぐらい大丈夫、大丈夫。
…でも心配性の僕は雑巾がけで濡れた床が乾いた後、律儀に掃除機をかけたのであった。
そして別の小屋においてあった布団やこたつ、CDラジカセなどなどをきれいに並べ、掃除完了。これでいつ訪問者が来ても泊まる場所には困らない。
自分、グッジョブ!!
カチンコチンのあんまん
先生のもとに戻ると、先生は干しいもをカットしていた。僕は手伝おうとしたのだが、今日はあまりやることがないらしく、別の部屋の掃除をすることになった。
そして出てきたのがこのあんまんである。
前にここのブログであんまんを食べたのはいつのことであろう。振り返ってみると40日目である事がわかった。ブログにこうやって記録しておくと色々と便利なことがあるなと思った。
冷凍だったら良かったのだけれど、そうではなく冷蔵保存されて水分が飛んだカチンコチンだったので、大丈夫なのか?と心配になったけれど、これで捨ててしまってはあんまんに失礼な気がするので食べることにしよう。
うーむ。固い…。
僕は水をシュッシュッとふきかけ電子レンジでチンしてみることにした。カチンコチンをチンである。
あ。復活した。見事チンによりカコより甦ったあんまんを僕は頬張った。うーんマイルドぉ〜。タイムレンジだな、こりゃ。
僕は食べ物を捨てることが出来ない人間なのである。あとはお腹が痛くならない事を願うしかないな。うん。
この旅で2回目
このブログをずっと読み続けてくれているあなたは気がついているかもしれないが、実は今日はおにくの日。先生の息子さんの命日である17日に毎月息子さんが好きだったお肉を食べる日である。
もう前回から1ヶ月経っている事にビックリしているのだが、今日はそのために早くこの山を降りる。どうせならお昼も下で食べるかという事であの場所へ向かう。
連れて行ってもらったのは僕の大好きな、さぬき麺市場!ここに来た時に僕が頼むものは何の迷いもなくひとつだけ。
そう。醤油うどん。それに自分で大根おろしと揚げ玉をたっぷりかけて食べる。
しかし、今日はサイズの方を「中」にしておいた。これで300円。そろそろ体重の方を本格的に考えなければならない状況になってきた気がする。
夜にはおにくを食べる事だし、控えめにしなければ。まぁ、これでも充分多いんだけどね。
それにしても以前のおにくの日にもお昼にさぬき麺市場に連れていってもらった。この旅で2回目。この事に気がついているのは僕だけだろうか。
サツマイモと農家の不思議
うどんを食べてお腹いっぱいになった後は、農家の家へ鳴門金時を受け取りに行く。だいぶ寒くなってきたのだけれど、まだサツマイモというものは収穫出来るものなのだろうか?
ここに来てはじめて知ったのだけれど、サツマイモは寒さに弱いのだ。野菜ってなんとなーく冷蔵庫にいれた方が長持ちするイメージだった。野菜室ってあるしさ。
でも寒いと一気に傷んでいくのがサツマイモなのだ。だから春に苗を植え付け、晩夏から秋にかけて収穫するのが一般的らしい。
この秋っていう定義はどうなのだろう。僕は毎朝温度計を写真に撮っているけれど、今日は1.5℃だった。1.5℃は秋なのか?
もちろん山の上が比較的寒いのは確かなのだけれど、10℃以下の温度ならそれはもう冬なのではないか?なのに毎回こうして芋を取りに来ると鳴門金時はコンテナにどっさりと準備されている。
うーむ。農家って不思議だ。
今日はコンテナに6ケース。農家についた僕はそれを慣れた手付きでトラックに積み込む。最近はホロのかけ方もわかってきた。ゴムでグルグルっと固定して出発進行。
ここの温泉はどこでしょう?
さてさて、徳島に来て何度も温泉に連れて行ってもらっているわけだけれども、ここはどこの温泉だかわかるでしょうか?
ヒントはこのブログで毎回鳴門金時を受け取りに行っている時に連れて行ってもらっている温泉です。
え?
そんなにこのブログを意識して読んでいないって?
そんなバナナ…。
ウキーッ!!
ということで、お猿さんマークが目印の『あいあい温泉』でした。
今日も先生に温泉のチケットをもらってしまった。ここの温泉は広いし、種類も豊富だし、露天風呂には沢山の石像があるし、すこぶる楽しい。こんな昼間から温泉に浸かることが出来るなんて贅沢な生活だな。
埼玉にいる時はお風呂屋さんなんて意識して行ったことなかったけれども、これからは趣味でたまーに行こうかな。夜に散歩している時の通り道にあるんだよね。
「見沼天然温泉小春日和」っていうお風呂屋さん。埼玉に温泉があること自体知らんかったぐらいなんだが。こう新しい習慣が自分の中で芽生えていくっていのも人との出逢いならではだなぁ。
前回も先生は口をパカーっと開けて気持ちよさそうに露天風呂で寝ていたが、今日も寝ている。
僕は先生を起こさないようにするりとお風呂を抜け出し、服を着た。ちょっとの時間でもブログのメモを書かねば溜まりに溜まっていく。去り際に体重計に乗ってみたけれど、この旅に出てから11kgほど太っていた。
…見なかった事にしよう。今日はおにくの日だ。
四国に来て何度叫んだことだろう
先生が上がってくるまでの時間、僕はラウンジのような場所でケータイをポチポチしてメモをとっていた。しばらくすると先生が出てきたので、車に乗る。
その時だった。
む、虫だ!!助手席のところに虫がおるっ!!
これはゾウムシというやつか!?
温泉で温まった体が一気にスーッと青ざめていく。ぎゃーぎゃー騒ぐ僕を見た先生は、一度乗った運転席から車を降り、助手席までやって来ては、ヒョイッとゾウムシを掴んだ。
虫。それは大巨人をもうならせる存在。何度見ても虫というのは怖いものだ。ムシキングなんて昔流行ったけれど僕には全く意味がわからなかった。
ジャポニカ学習帳の表紙から虫が消えたのはもしかすると僕のような人のせいなのかもしれない。
それにしてもヒョイっと掴んだゾウムシをなんとはなしにポイっと外へ逃してやった先生は、ワッハッハと大声をあげて運転席に戻っていった。
たくましい。
ダイソーで買いたかったもの
そう言えば最近先生に頼まれていたことがあった。それはお孫さんたちがスマートフォンを見ることの回数を減らして欲しいというお願いだった。
先生はスマートフォンの便利さの裏側を見ている。便利だという事は、必ずその裏で働く何かがある。
たとえば、車に乗るようになってから、人間があまり歩かなくなって足腰が弱ったように、便利だという事は何かを失う事でもあるのだ。
お孫さんたち、特にその中でも折り紙王子は僕と遊ぶ時に決まって「スマホ貸して?」と言ってくる。スマホで難しい折り紙の折り方を検索してそれを折るのが楽しみなのだ。
僕は別に深く考えもしなかったのでヒョイヒョイっと言われたとおりにスマホを貸し出していたのだが、彼の一言でハッとした。
「知ってるよ?スマホで調べればすぐにわかるよ?」
折り紙王子は僕が話をした内容について、考える間もなくそう言った。
…これはいかん。これでは推測して考える力が身につかない。それに調べるという行程がこう簡単になってしまった今となっては、知識は垂れ流しになっていき、記憶に残らないのではなかろうか。
これがスマホが普及した事による反動というものか。考えてみれば、同じような現象が僕にも起きていた事を思い出す。
僕は大学生の時に電子辞書という物を手に入れて、それまで使っていた辞書をめくるという行動をしなくなった。
浪人生の時は時間をかけて辞書を開いて、調べた所に線を引いて、という行動をしていたものが、電源ポチっとパチパチっと電源OFFという行動になった。
結果どうだろう。自分の知りたい情報にはいち早くたどり着くようにはなったが、調べた単語を今も覚えているか?と言われればそうでもない。人間の記憶には時間と労力が必要なのである。
その時間と労力が失われてしまえば、記憶には残りにくい。受験生には是非、面倒でも紙の辞書を引くことをオススメしたい所である。
そんな事を思った僕は、早々に対策をすべく先生に話をし、ダイソーに連れて行ってもらった。
ダイソーで僕が買ったのはこれだ。おりがみの本とプラスチックのトランプ。
これでスマホから遠のいてくれると嬉しいのだが。
…と思ったが、折り紙王子にプレゼントすると、パラパラっとめくった後、ここに書かれているやつなら、もうほとんど折ったことあるわと、一瞬で興味を失ってしまったようだった。
残念!!
この本は末っ子の肩車ボーヤに活用してもらう事にしよう。
ちなみに、プラスチックのトランプは、今まで使っていた紙トランプだと子どもたちのエキサイティングな行動で折り目が付いてしまう事が多かったので、どうせならと購入した。
それにプラスチックトランプにしか出来ないトリックみたいなのもあったし。
…僕は子供に気に入ってもらおうと必死なのである。
今日の目玉は肉だけじゃない
さてさて、ひとまず先生のお孫さんたちと新しいトランプで遊んで時間を潰した後、お待ちかねのお肉の日の夕食になった。美味しそうなお肉だ。
お肉が焼けた頃、野菜を投入。
…そして!!!
君にはこれがなにかわかるだろうか!?
これは、そう!
松茸だ!!
先日、アワーズであねさんと発見した激安のマツタケ!
まつたけまつたけ、まつたけだ〜♪とあねさんをおかしなテンションに変貌させた、あの松茸である。
先生は自慢げに奥さんに「この松茸いくらだと思う?」と訊いていた。奥さんがいくらいくらと推測したけれど、決して答えを言わない所が先生のにくい所。
そう言えば僕の正体を知人に適当に紹介するあたり、先生は案外おちゃめなのかもしれない。
噂をすれば影がさす
僕らが美味しくお肉を食べていると、先生の電話が鳴った。先生の電話が鳴ることは別に珍しいことでもなんでもないのだが、どうやら電話の相手は僕もあった事がある人らしい。
何やら僕がまだ居ることを確認していた。
お肉を食べ終えた後、その電話の主が誰だかすぐにわかることになる。その相手とは、四国歩き遍路日記29日目で出逢ったイノシシ取り名人のおっちゃんだった。
先生がもう狩猟をしないと決めてイノシシの罠を譲ったあの人だ。「イノシシ取ったら肉食べさせてやるけん」という約束を覚えていてくれたらしい。
僕らは夕食を終えた後、そのおっちゃんの元へ向かった。
真っ暗の中、僕は地面に2つの黒いものが落ちているのが目に入った。
それはイノシシの死体だった。
…初めて見るその光景に、僕は申し訳ないながら心が動揺してしまった。
そこには確かに数日前まで生きていた動物が横たわっている。
先生と名人のおっちゃんは楽しそうに会話をしていたのだけれど、僕はイノシシから目が離せなかった。イノシシの目はこちらを見ている。微かな光を反射し、目が光る。
毛は血で濡れ、固まっていた。二匹のイノシシの死体。
死というものはこういう事なのだ。死を忌み嫌い、見ないように見ないように生活する現代人。当然のように毎日食べている獣の肉。
さっき食べたお肉も、動物の命を奪った結果なのだという事実を叩きつけられた。
喉元に湧き上がっていく胃酸のようなもの。僕は地面に足を貼り付けられたようにその場に立っている事しか出来なかった。
「じゃ、運ぼうか」
僕が固まっているとはつゆ知らず、先生は一言そう言った。
そうだ。このイノシシは名人のおっちゃんが僕との約束でくださるイノシシなのだ。そうなると当然、トラックに積んで持ち帰らなければならない。
先生と名人は慣れた手付きでイノシシの足をひとつずつ持ち上げた。「ほれ、そっち持って。重いで?」
僕は言われるがまま、指示された2本の足を掴む。死体に触れる。
数年前に、病気で庭に倒れて死んでいた飼い猫のポン太の事を思い出した。あれだけ可愛がっていたのに、口から胃液を吐き出し死んでいたポン太は、もはや「それ」だった。
怖かった。ぽん太を毛布にくるんで土に埋めるときも、ポン太に触るのが怖かった。生きている柔らかさを感じない、固くなったポン太は、僕に恐怖を与えた。
僕はなんというクソ野郎なんだろう。なんという偽善者なのだろう。
死とは何だ。
なぜこうも死は僕に恐怖を植え付けてくるんだ。
僕は何もわかっていない。死とは…。
二本の足で持ち上げたイノシシは、驚くほど重かった。これはあれだ。金を手に持った時の驚きに似ている。目から入ってくる情報と、重さに誤差があるのだ。物質の密度というのを理科で習ったが、あれを今、実感している。
これでも名人のおっちゃんが気を使って、内臓を取り除いてくれていたようで、本来のイノシシはもっと重いらしい。
前に豚に比べてイノシシは内臓がずっしり重い為、同じ大きさでも重さが全然違うというのを先生に教わった事を思い出した。イノシシの突進が凶器になるのはそのせいだ。
しかし、僕が今感じている重さは、そういう事ではないのかもしれない。
命の重さ。
これが命をいただくという事なのだ。食べるとはこういう事なのだ。昼間にぼたん肉とかなんとか調べて悦に浸っていた自分が情けなかった。
3人でなんとかイノシシを持ち上げ、2頭のイノシシをトラックに積んだ。トラックには血が飛び散っていた。
…僕は不謹慎だとわかっていながらも、それを写真に撮った。もちろん、ここに載せたりはしないけれど、僕が感じたこの感情は忘れちゃいけないことだと思ったのだ。
今でも写真を見ると、恐怖を感じる。でも、覚えておこう。これは僕の人生の中で絶対に目を背けてはいけない事なのだ。絶対に。
四国歩き遍路日記46日目まとめ
山の上に戻った先生と僕は、二人で軽トラックからイノシシをおろした。
どうやら、イノシシは横に寝かせておくと、地面に触れている部分が傷んでしまうらしい。少しでも命を美味しくいただく為に、紐で吊るしておくのが常識なのだそうで、二人で重たいイノシシをなんとか持ち上げた。
イノシシは母屋の裏側でゆらゆらと揺れている。
疲れた僕は、先生との夜の談義はほとんどせず、布団に潜った。
僕の寝ている場所は母屋。窓の外を見ると、イノシシが逆さ釣りになっている姿が見える。
風が吹く度、ゆらゆらゆれる。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
顔をそむけて逆の方向を見て寝ようとしたけれど、月明かりでイノシシの影が目の前に映っている。
ちくしょう。
せめて美味しく食べてやるから待ってろよ。
おさまれ、僕の恐怖心。
僕はその日、いつも以上に大きな音を出してイヤホンで音楽をかけて寝たのだった。
そんな四国歩き遍路日記46日目。