ブログ小説の二十一回目の更新。スーツについて。
スーツってあなたの中ではどんなイメージですか?フォーマルでしっかりしているとか、仕事の服とか、信頼出来そうとか、色々なイメージはあると思います。
しかし、スーツというものを指で数えるぐらいしか着たことがない僕の中では「変身!」ってイメージがスーツにあります。あれを着るだけで、何かに変われるみたいな。
日本人がいつからスーツを着るようになったのかは、明治維新後とか考えられそうですが、あの頃はまだ富裕層だけしか着ることが出来ない高級品で主に背広(セビロ)と呼ばれていました。
今でも年長者の方は背広と呼ぶ人もいますが、2割ほどだそうで8割以上の人はスーツと呼びます。んでそのスーツが、本格的に市民権を得るのは第二次世界大戦後の事です。
戦時中の軍服にスーツが使われる事になり、その名残でスーツが一般化し、海外の仕事着の主流がスーツだったことから日本でも仕事着と言えばスーツという時代がやってきました。
そしてそこから50年後、クールビズと呼ばれるものが現れ、徐々に職場でのスーツのあり方が変わってきました。
なんか世界の中には、もうすでに職場でスーツを着ている事を変だと思う国もあるみたいで、未だに多くの社会人がスーツを着ている日本を見て、不思議に思う人もいるらしいです。
やっぱり統一感を出すためなんですかね、スーツを着るのって。もし、さらに50年後の日本でスーツを着る文化が消えたとしたら、人々は私服で働くんでしょうか?それとも新しいユニフォームが登場するのかな?
僕は個人的には芥川龍之介が大好きなので和服が流行してくれないかなぁ〜なんて思うんですけどね。まぁ、胸毛ボーボーの僕は和服だと胸元がちょっと大変な事になりそうですが。
…という事でなんの話かわからなくなってきましたが、ここからは過去に書いた小説をブログ形式に変換して投稿していく企画。映画のような人生をというブログ小説をお送りします。
全部で39章分あるのですが、今回はその中で第二十一章「スーツ」をお送りしたいと思います。どうぞよろしく。
【ブログ小説】映画のような人生を:第二十一章「スーツ」
大切なのは中身なのだ。先ほどの儀式でぼくはすでに新しいぼくなのだ。自分がこうありたいという自分で参加すればいい。そもそもぼくの名前を知っている人はほとんどいないのだからそのままでも充分新しいのではないか。そう思って参加表に自分の名前を記入した。
会場にはすでにビュッフェの準備がなされていて、好きな食べ物を取れるようになっていた。人も先ほどとは打って変わって多く集まっており、それぞれが着飾っていた。
ぼくは普段着のピンクのTシャツに着古したブルージーンズで来てしまい、少し恥ずかしくなった。人間は中身。人間は中身なんだ。そう自分を励まして、人が群がる中に入って行く。
そこに見たことがある男がいた。説明会の帰りに出会った加藤だ。加藤はグレーのスーツに胸には花飾りをつけ、ピカピカに磨いてある茶色いプレーントゥの革靴を履いていた。
この間出会った加藤とはまるで別人のように垢抜けて見えた。その姿に戸惑っていると、加藤はこちらに気がついたらしく近づいてきた。
「おう、伊波。やっぱりまた会ったな」
「そうだな。お前、この間見た時と全然感じが違うな」と加藤を加藤と呼んでいいのかわからず、お前と呼んだ。
「そりゃあそうだよ。それがこのサークルの醍醐味だろ。なりたい自分になる。そういうイベントだしな」
「そのスーツかっこいいな。お前はそういうのに憧れているのか」
「憧れているんじゃないんだ。これが俺なんだよ」と加藤は胸を張った。
「そうだよな。ここはそういう場だもんな」
「伊波はまだまだだな。お前この間とほとんど変わってないじゃん」
「いいんだよこれで。人間は中身が大事なんだから。中身が変わってないと何も意味がない」ぼくは加藤の言葉に少しむっとして答えた。
「そうかな。人間はまず外見を変えない事には何も変わらないと思うけどな。失恋したときとかに髪の毛切ったりするだろ。あれと一緒だよ。外見を変える事で中身にも変化が訪れるんだよ」
なるほど。加藤が言う事に少し納得してしまった。
確かにスーツを着ればしっかりしないといけないという気分になるし、女性は化粧をすることで気持ちが引き締まるというのを聞いたことがあった。たった少しの会話で、喫茶店で考えていた考えが揺らいでしまった事が悔しかった。
「確かにそうかもしれないな。今度からぼくもスーツを着てくるよ」
「いや、別にスーツにこだわらなくてもいいと思うけどさ、自分の内面が引き締まるような恰好をすれば自然とそういう人間になれるっていう話だからさ。俺の場合はそれがスーツなだけ」
そう言って加藤は胸元の花飾りを指でサラリとなで上げ、その指でぼくの事を指しながら言葉を続けた。
「伊波の場合、持ち物とかでもいいんじゃないかな。ちょっと高い財布を持ってみるとか時計をいいものにするとかね。そういう見えそうで見えない外見を変えるだけでも自分って変えられるもんだろ。結局は自分が自分をどう見るのかってことだから」
「人の心だって見えそうで見えないものなのだから、心が変われば自分を変えられるじゃないか」
「その第一ステップが外見ってことなんだよ。人の心は中々変わらない。だから簡単に変えられる外見をまずは変えてみろって事だろ?」
「そういうもんかね」
「タイムイズマネーって名言を言ったベンジャミン・フランクリンが『私たちをダメにするのは他人の目である。もし目が見えなかったらよい服も家も家具も望まない』みたいなこと言っていたんだけど、現実には俺は目が見えているわけで、よい服着ていれば他人に褒めてもらいたくなるし、いい家に住んでいたら自慢したくなる。かっこいい家具だって欲しい」
「そういう欲が人間をダメにするってベンジャミン・フランクリンは言いたいんじゃないの?」
「要は、そういう外見的なものによって自分を認められるようになるんだったらそれはそれでいいんじゃないかって思う。そういうものを通じて人に見てもらいたい、人と関わりたいっていう気持ちに自信を手に入れているわけだな」
加藤は得意げに語った。
確かにぼくは家に籠っていた時、特に外見など気にしなかった。それなのに、この場に来て自分の服装を恥ずかしいと思った。それは他人の目があるからだ。
神田さんも言っていた。自分とは周りの目という共通認識が創り上げたイメージだと。
でも、千秋さんはこうも言っていた。地位や名誉があっても、自分が自分を認めていなければ幸せにはなれないと。地位や名誉と服。いくら着飾っていても自分がそれを嫌だと感じるなら幸せじゃないんじゃないか。
どちらが正しいのだろうか。ぼくはわからなくなった。千葉ならこういう時、なんて言うだろう。急に千葉に会いたくなった。
「まぁ、難しいこと考えずに今日はまだ一回目だし楽しもうじゃないか」と加藤は言った。
加藤のその言葉を聞き、ぼくはなぜかいたたまれない気持ちになった。
【ブログ小説】映画のような人生を:第二十一章「スーツ」あとがき
いかがでしたでしょうか。今回はブログ小説の内容を受けて、他人から見られる事について語りましょう。
会社で働く社会人のほとんどがスーツを着て働くことからもわかるように、僕らは常に他人の目を気にしながら生きています。
そんな中で人からどう思われているだろうかとか、どう見られているのだろうかという事を気にしすぎて、病気になってしまう人もいます。僕もおそらくその一人です。
他人の目について随分と悩みましたが、悩んだ末に他人の目には二通りの対処法があるんじゃないか?と考えたのです。
ひとつは他人の目があるからこそ、自分はしっかりとした生活を送ることが出来ていると受け止める方法。
ベンジャミン・フランクリンは「私たちをダメにするのは他人の目」と言ったけれども、他人の目があるからこそ、欲望を持つことが出来て成長したり、自堕落な生活を送らずに済んでいる部分があると思うのです。
たとえば、学生時代に誰もいない教室で急に踊りだしたくなったり、好きなあの子の机を触りたくなったりしませんでしたか?誰にも見られていないという状況が自分を堕落させる。
でも実際にそんな場面を誰かに見られたら、人生オワタと学生時代の自分は思っていたかもしれません。それだけ誰かに見られていない時の自分は規律から外れた事をやりたくなってしまうのです。
人間は基本的には下に下に落ちていきがちな生き物です。
ある程度規律があるからこそ、下に落ちずにいられるのだし、その規律を作り上げているのは他人の目。
社会とは他人との協調なので、人からどう見られているのかをある程度意識しながら行動するというのは、ある種の相手に対する思いやりでもあります。
その思いやりを持つことで、自分が下に落ちずにいられるのだったら、まぁ良いじゃないかというのがひとつの考え方。
もうひとつは開き直ることです。人からどう見られても良いやと。
僕は今まで、人からどう思われているだろうかという事にあまりにも過敏過ぎました。それがひどくなって統合失調症として幻聴も聞こえるようになり、一時は本当にどうやって生活していけばいいかわかりませんでした。
そしてある時、体中の毛という毛を全部剃ってみたことがあるのです。ひげを剃っている時に思い立って、そのまま髪の毛を剃り、鏡を見て、眉毛も剃り、胸毛も剃ってね。
そこにいたのは明らかに今までの自分とは違う、狂気でした。ですが、僕はそれが狙いだったのです。
人からどう思われているだろうか?と悩んでいる時は、基本的に自分が思っている自分よりも、他人は自分を下に見ているのではないか?と思うから心配になるのです。
自分が思っている自分自体を最初っから無茶苦茶下に下げておくことで、下に見られても当然だよな!と自分を納得させる事が出来ます。
人々がヒソヒソ何かを言ってそうに見えても、こちらにヒソヒソ言われそうな何かが予めわかっていれば、何も問題はないのです。
ある時、ツルッツルのマルコメで眉毛もないままスーパーに出かけた事がありました。その帰り道。僕が歩いていると、スーパーから買い物をして出てきた自転車がポトリと何かを落としました。
それは菓子パンで、落とした本人は気がついてない様子。僕は瞬時にそれを拾いあげ、「すいませーん」と自転車に呼びかけました。
その声に気がついた自転車は、停まって振り返り僕を見ると「ひっ!」と短く言いました。そしてすぐに前を向き、急いで自転車を漕ぎ始めました。
僕はそれをみて、すぐさま走り寄り、今度は「パンを落としましたよー」と要件を明確にわかるように呼びかけました。
するとその自転車の人の顔は和らぎ、「あ!ありがとうございます!」とお礼を言ってパンを受け取ってくれました。
僕は踵を返し、家への道に戻ろうとすると、その一部始終を見ていた別のおばさんが「良かったわねぇ〜」と僕に微笑んでくれました。
結局、これだと思うのです。外見でどう見られようと、中身が伴っていれば人々はそれで判断してくれるのです。
ぶっちゃけ外見で判断される事もあるでしょう。でもだからなんだというのです。それだけで判断されて僕から離れていくというのであれば、そんな人とは関わる必要がそもそもなかっただけなのです。
そんな風に考えるようになってから、少しだけ日々の生活が楽になりました。僕はそれから、今度は1年間全く髪の毛も切らず、ヒゲもそらずに生活してみることにしました。
1年経つ頃にはポンキッキーズのムックのような、愛・地球博のモリゾーとキッコロのようなモジャモジャが街を徘徊しておりました。事案発生案件になりそうな勢いでした。
でも良いのです。僕は何も悪いことをしているわけではないのです。悪そうに見えるだけなのです。だから事案も発生しませんでしたし、捕まりもしませんでした。
人からどう思われても良いやというメンタルを手に入れた僕は、髪をバッサリと切り、ヒゲを綺麗に剃りました。
そこには数年前、お風呂場でひげそりを持っていた僕とよく似た顔がありました。しかし、聴こえてくる幻聴の数は明らかに減りました。
まぁ、そんな感じで僕は他人の目への対処法を身に着けたのでした。
という事で、あなたもたまーに誰かから悪口を言われているかも知れないとか、どう思われているのだろうと心配になることがあるかもしれませんが、そんな時は一度開き直ってみるのも良いかもしれません。
悪口を言われても、誰にどう思われても、あなたは何一つ失わない。あなたはあなたのままです。あなたのままに生きて良いのです。
…なんか最後はちょっと怪しい自己啓発みたいな話になりましたね。ツボ売りつけたりはしないからご安心を。
ではでは、【ブログ小説】映画のような人生を:第二十一章「スーツ」でした。
野口明人
ここまで読んでいただき本当に、本当にありがとうございました!
【ブログ小説】映画のような人生を:次回予告
注意:
ここから先は次回の内容をほんの少しだけ含みますが、本当に「ほんの少し」です。続きが気になって仕方がないという場合は、ここから先を読まずに次回の更新をお待ち下さいませ。
ここから
- クリックして次回の内容を少しだけ表示する
加藤と話した後、何をしたらいいのかわからず、会場の端を行ったり来たりしていると、千秋さんが会場の前の方に現れ、マイクを使って開会宣言をした。会場に静寂が訪れる。
次回へ続く!
【ブログ小説】映画のような人生を:今回のおすすめ
【ブログ小説】映画のような人生を:他の章へはこちらから
映画のような人生を