ブログ小説の六回目の更新。前回、映画のタイトルからサブタイトルを考えるというルールを辞めたという話をしましたが、今回は原文そのまんま「心の喧騒」です。
心の喧騒で何か思いつく映画あるかなぁ〜って思ったんですが、なーんも思い浮かびませんでしたし、なーんも検索にヒットしませんでした。
そもそも心の喧騒という表現は、存在しているんでしょうか?「心の喧騒」で検索すると「都会の喧騒」が出てきます。喧騒とは人声や物音で騒がしいこと。
心が人声や物音で騒がしいこと。これを書いた当時、それは普通の事だと思っていたんですが、考えてみたらあの当時から僕は統合失調症の幻聴で苦しんでいたんだなぁ〜と、今更ながらに思い知りました。
…という事で、過去に書いた小説をブログ形式に変換して投稿していく企画。小説自体のタイトルは映画のような人生をです。
全部で39章分あるのですが、今回はその中で第六章「心の喧騒」をお送りしたいと思います。よろしくどうぞ。
【ブログ小説】映画のような人生を:第六章「心の喧騒」
目的もなく歩いた。どこまでも、どこまでも歩いた。自分は今、生きているんだなと思った。酸素が肺を一杯に満たした。自然と歩く足にも力が入った。闇はもう怖くない。すべてがぼくに優しかった。だから歩いた。
気がつくと神田川の川沿いを歩いていた。ここには実家の近くに流れている川のような自然な空間は残っていない。それでも、都会のごみごみした喧騒はなかった。川の流れる音が、かすかにさらさらと聞こえた。心が安らぐ気がした。都会もまだ捨てたもんじゃない。ショパンのプレリュードを思い出す。音楽が心の中で踊った。
『お前は勝手な奴だ。音楽は気休めじゃなかったのか。娯楽に過ぎないのではなかったのか。お前は何も変わっていない。自分じゃ何も変えられない。何が変わったのだ。何が……』
ふいに頭の中で誰かが囁いた。頭痛が酷くなった。ぼくは歩くのをやめる。視界が暗くなる。
小さい月が不気味に笑った。
【ブログ小説】映画のような人生を:第六章「心の喧騒」あとがき
今回は非常に短い章になりました。
神田川の川沿いが出てきますが、実際に早稲田に通っている時に、ちょくちょく神田川沿いを歩いていたんですよ。
通称「馬場歩き」と呼ばれる高田馬場駅から早稲田大学へ向かうまでの道はラーメン屋やら本屋やら居酒屋やらで賑わっていて、それこそ喧騒そのものだったと思います。
そんな本通りから一本外れた所に神田川が流れていて、高い建物に囲まれているせいか陽当たりが悪くてどんよりしているんですけど、それがかぐや姫の歌う神田川の雰囲気にマッチしている感じがして好きでした。
あなたはもう忘れたかしら〜♪赤い手ぬぐいマフラーにして〜♪
神田川はコンクリートに閉じ込められた都市河川で、柵に手を当てて下を覗いていると、徐々に徐々にどんより心が落ち込んでいくんです。
覗いても覗いても底が見えてこなくて、自分のこれからは一体どうなっていくんだろうという、漠然とした不安に駆られていました。
そんな鬱病だった頃を思い出しながら、統合失調症の僕が書いた文章がこんな感じなんですね。
…振り返ってみると、なかなか黒歴史なんじゃないか?と思えてきました。
あ、ショパンの前奏曲はマルタ・アルゲリッチという女性が演奏しているイメージです。1975年に演奏されたソレは、なんというかクラシックをかじったことしかない僕でも心が動かされました。
中々良いアルバムなので、興味があれば探してみて下さいませ。
ではでは、【ブログ小説】映画のような人生を:第六章「心の喧騒」でした。
野口明人
ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。
【ブログ小説】映画のような人生を:次回予告
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今、ぼくはどこにいるのだろう。目を開けると周りは真っ暗だった。いつの間にか眠っていたらしい。首筋が少し痛んだ。無意識に左手の甲を掻いた。蚊に刺されたようだ。掻けば掻くほど痒みが増した。
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