【ブログ小説】映画のような人生を:第三十一章「親友」

ブログ小説の三十一回目の更新。親友について。

親友と思える人が、あなたにはいますか? そもそも親友の定義とはなんなんでしょうか?Wikipediaにさらりと紹介されている内容だと、「親友とはとても仲がいい友人を差す」らしいのです。

この定義ならば僕には親友もちらほらいる気もしますが、僕は今まで「こいつと親友になれたらいいな」と思う事はあっても、「こいつとは親友だよな」と思った事がありません。

僕の勝手な解釈だと親友とは相互がそう思い合っていなければいけないと思うのです。こいつとは親友だと思った相手が、自分の事を「親友とまではいかないけど、まぁ仲が良いよな」と思っていた場合、それは親友と言えるのでしょうか?

なんとなくオンリーワン感が漂ってくるのが僕の中の親友像なのです。

…という事で、ここからは過去に書いた小説をブログ形式に変換して投稿していく企画。映画のような人生をというブログ小説をお送りします。

全部で39章分あるのですが、今回はその中で第三十一章「親友」をお送りしたいと思います。どうぞよろしく。

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【ブログ小説】映画のような人生を:第三十一章「親友」

ブログ小説-映画のような人生を-親友-あらすじ

 その日を境にぼくは禁断症状から抜け出した。吐き気も収まり、普通に生活出来るようになった。

 戻らなかったのは食欲だけだった。ぼくの腕や足はすっかり痩せ細り、自分で見ても木の棒がぶら下がっているようにしか見えなかった。何かを食べようという気にならなかった。煙草とサイダーだけで生活した。

 両親の顔が浮かんだ。きっとこんな食生活をしていたら怒られるだろう。朝ご飯を食べなかっただけで怒り出す母親だ。実家の朝食には必ずご飯と味噌汁が付いてきた。そういう一般的な家庭を前は嫌がっていたつもりだったが、今はなぜか懐かしかった。

 ぼくは相変わらずサークルアノニムに参加した。今、ぼくからこのサークルを取ってしまったら何も残らない。そう思ったからだ。そのかわり、出席する時はなるべく千葉と一緒に出席するようにした。千葉は土曜日の予定があるにも関わらず、ぼくが名前舞踏会に行きたいと言うと予定をキャンセルして一緒についてきてくれた。やはり心配してくれているのだろう。でも、土曜日の予定が何なのかをぼくは一向に知らなかった。

 昨日の事を思い出す。千葉にしろ、千秋さんにしろ、ぼくは二人について知らない事が多すぎる。そもそも、二人は何処で知り合ったのか。

 サークルの勧誘で知り合ったと考えるのが普通だろう。でも。何故だろう。二人の関わり方になにか違和感を覚えた。最初に感じたのはサークルの説明会の帰り道の事だ。サイダーを買って二人の元に戻ってきた時に見た光景になぜか嫉妬した。仲が良すぎたのだ。会って間もない二人には見えなかった。ぼくが入り込めない何かがあった。

 正しく言えば初々しさがなかったのだ。出会って間もない時期というのは少なからず遠慮というものが顏を出す。その遠慮というものが全くと言っていいほど二人の間には見えなかった。もちろん、千葉の性格がそうだからと言ってしまう事も出来る。でも千秋さんはどうだろう。後輩に馴れ馴れしくされるのは抵抗がないものなのだろうか。

 二人についてはわからない事ばかりだ。これで友達だと、親友だと思ってしまっているのだからぼくはなんて浅はかなのだろう。もっと知りたい。そしてもっと深い関係を築き上げたい。それだけの事なのに、人間関係は難しいものだ。疑問が人を不安にさせ、疑惑が人をイラつかせる。

 千葉や千秋さんと仲良くなって、何かを手に入れた。手に入れたものを失うのが怖くなって、何も起こらずにこのまま時間が止まればいいのにと思った。変化が怖くなったのだ。なのに、なぜもっと知りたいと望むのだろう。このままでいいのだ。このまま友達でいれればそれでいい。

『友達? それでいいのか?』

 違う。友達じゃない。ぼくが欲しいのは親友だ。でも友達と親友の違いは何なのだ。

 ふと、高校の担任が卒業式にしてくれた話を思い出す。泥臭いことを言う不思議な初老の先生だった。

「これから先、君たちは大学生になり社会人になり出会いと別れがもっともっと増えるでしょう。そして大人になればなるほどその出会いが提供するものは『友達』から『仲間』に変わっていきます。

 そして集団の中で生きて、気がつけば全体を考え個々を潰す習慣が染みついていく。自分は全体を動かす一部品でしかなくなる。そういう国なんです、日本は。働けば働くほど孤独になります。自分との戦いになります。経済大国日本? そんなかっこいいものじゃありません。部品人間生産国日本です。

 もし君たちが社会人になり企業に勤めたらこんな事を考える時が来るでしょう。『同じ目標に向かって頑張る仲間に迷惑をかけちゃいけない。同じレベル基準で集まった仲間の足をひっぱっちゃいけない』そうやって縮こまり何も出来なくなる。全体に生きているのに孤独になる。それが社会人になってから出会う『仲間』の弊害です。

 友達はそうじゃないんですね。迷惑だってかけてもいい。それはお互い様です。自分が困った時は友達に助けてもらい、友達が困った時は自分が助けてあげる。迷惑だってかけられる方は嬉しいものなんですよ。力になってあげられるわけですから。足を引っ張ってもいいんです。

 そもそもがみんな違うんですから。友達が持っていないものは自分があげる。自分が持ってないものは友達からもらう。友達はね仲間のように同じ目標なんて持っていなくても、ただただ好きだから一緒にいるんです。だから友達なんですよ。

 でもね、残念ながら友達というのは消えるんですね。同じ目標を持っているという縛りがないからね、会わなくなったり環境が別々になったりすると好きって感情が薄れていっちゃうんです。恋愛と一緒ですね。相手に会わないでいると段々相手への気持ちが薄れていく。

 でもね、たまに遠距離恋愛だろうがなんだろうが相手への気持ちが変わらない恋愛もありますよね。それと同じで会わなくても、別々の環境で生活していても常に相手への気持ちが薄れる事がない友達がたまにいるんですよ。それが親友。

 大学生は社会人になる前の、友達をたくさん作れる最後の環境です。多くの友達を作ることも大切かもしれません。でも、それよりも一人だけでもいいから永遠の親友を作ってください。それが今の日本で社会人として全体に潰されずに生きていくための知恵なのです。

 いつまでも相談できる永遠の親友が、たとえ近くにいなくても、働く環境が違っていても君たちを孤独から救ってくれますから。ただ、その親友もある時突然消えることもあるのですがね。ま、その話は君たちが大きくなってもまだ聞きたかったら聞きに来てください。とりあえず、どうか私みたいにはならないでくださいね。君たちには希望があるんですから」

 先生はぼそぼそと、そう言った。

 その先生はぼくらが卒業した次の月、突然失踪した。先生は今どこにいるのだろう。話の続きが聞きたかった。友達は消えてしまうもの。親友は永遠のもの。

 でも、本当にそうなのだろうか。そもそも親友の定義とは何なのだろう。永遠はどうやって創られるのだろう。相手をよく知っている事か。自分をよく知ってくれている事か。

 一方が親友だと思っていても向こうが違うと思っていたらそれは親友ではないのか。先生の例え話でいえば、片思いは親友にはなれないのか。友達か友達じゃないか、親友か親友じゃないかなんて一体誰が決めるのだろうか。ぼくか。相手か。両方か。神様か。お互いは対等なのか。隠し事はしてはいけないのか。嘘はいけないのか。偽りはいけないのか。

 人間には知られたくないことの一つや二つぐらいあるだろう。その事を隠すための嘘ならいいのではないか。嘘も方便と言うではないか。

 なぜだろう。そこまでわかっているのに、千葉や千秋さんの事をすべて知りたいと思ってしまう。知ったことで何かを失うかもしれないのに。知識の泉。知恵の泉。ぼくの中で生まれた泉がぼくを苦しめる。こんなぼくは変わり者なのだろうか。

 わからない。自分の事さえわからない。友達や親友のことなんてもっとわからない。

【ブログ小説】映画のような人生を:第三十一章「親友」あとがき

ブログ小説-映画のような人生を-親友-あとがき

さてさて。ブログ小説の中の主人公、伊波も友達や親友について色々と思い悩んでいるみたいです。

今回、改めて10年ほど前に自分が書いた内容を読んでみると、友達に対する考え方が全く変わっていないことに自分でビックリしました。

たとえばこのブログも10年以上続けているんですが、昔に書いた記事を読んでみると、今とは全く違う考え方だなぁ〜って思うのがほとんどなんですよ。

やっぱり10年の間に旅に出たり、色々な人との出会いで考え方がガラッと変わったと思っているので、そういう反応が自分の中で正常なんですよね。

しかし、この友達に関しての考え方で言えば、まるっきり変わっていなかったのです。それだけ僕の中の友達に対しての悩みというのは深いんでしょうね。

小学校の頃からずっと疑問だったんですよ。

あなたが一番仲の良い友だちは誰ですか?」という家庭調査書を僕の小学校では書かなくちゃいけなくて、うーんうーんと小学生だった僕は頭を抱えました。

一番?これは僕がその子の名前を書いたとして、その子が自分の名前を書かなかったらどうしよう。って、まさに伊波の如く考えたわけです。

良く、漫画やアニメの世界で「友達になって下さい!」「…もうすでに友達だと思っていたんだけど」みたいなシーンがあるじゃないですか。

僕はあの「友達になって下さい!」って言っちゃうキャラクターの気持ちがよくわかるんですよ。むしろ友達になろう!と口で交わしてくれた方が気が楽なのです。

友達と知り合いの定義がわかりません。何度かグループで遊んだとして、中には一度もしゃべった事がないメンバーとかいるじゃないですか。それでもそれは友達になるのでしょうか?

友達とは考えるものじゃない、感じるものだ。とまさにブルース・リーのような考えの人も中にはいると思うんですが、友達だと感じていた人に怪しいセミナーにつれて行かれたり、家族ぐるみで宗教勧誘されたりした僕は、自分の感覚を信じる事が出来ません。

…と、なんとなくネガティブな内容ばかりを書き連ねてしまっている僕には、友達の更に上を行く親友の感覚などわかるはずもなく。

そんな僕のブログ小説は友達をテーマに書き上げたものだという不思議。過去の僕は一体どうやってこの物語を締めくくったのか。

残りも両手で数えられるぐらいの数になってきましたが、どうぞお楽しみに。

ではでは、【ブログ小説】映画のような人生を:第三十一章「親友」でした。

野口明人

ここまで読んでいただき本当に、本当にありがとうございました!

あ、ちなみにWikipediaさんの提唱する親友とは、太宰治の『走れメロス』だそうです。久しぶりに読んでみるかな。

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【ブログ小説】映画のような人生を:次回予告

ブログ小説-映画のような人生を-次回予告

注意:

ここから先は次回の内容をほんの少しだけ含みますが、本当に「ほんの少し」です。続きが気になって仕方がないという場合は、ここから先を読まずに次回の更新をお待ち下さいませ。


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 わからない事はその後も起こった。それはぼくが初めて神田さんに会った時の事だ。

次回へ続く!

【ブログ小説】映画のような人生を:今回のおすすめ

走れメロス
4.4

著者:太宰治
フォーマット:Kindle
ページ数:17

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