【ブログ小説】映画のような人生を:第三十七章「電話」

ブログ小説の三十七回目の更新。電話について。

電話といえば、このブログ小説は電話の話から始まりました。“ここに一台の電話がある。”という書き出しでした。

電話って考えてみれば、すごいですよね。なぜ遠く離れている人に声を届ける事が出来るのか。今でもその原理が全くわかりません。

電話を発明した人を小説内ではアレクサンダー・グラハム・ベルに限定していますが、実際は様々な説があってかの有名なトーマス・エジソンもその一人として名前があがっております。

ではなぜアレクサンダー・グラハム・ベルがその中でも一番有名なのかと言えば、ちょっと前のあとがきで特許法の話をしましたが、米国特許商標庁に電気式電話機の特許を初めて取得したのがアレクサンダー・グラハム・ベルだからです。

でも今になってみると、それで良かった気はしますね。だって電話のベルが鳴るって言う所を、電話のエジソンが鳴るって言っていたかもしれないわけですから。

電話のベルの「ベル」はアレクサンダー・グラハム・ベルから来ている

…という事で、ここからは過去に書いた小説をブログ形式に変換して投稿していく企画。映画のような人生をというブログ小説をお送りします。

全部で39章分あるのですが、今回はその中で第三十七章「電話」をお送りしたいと思います。どうぞよろしく。

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【ブログ小説】映画のような人生を:第三十七章「電話」

ブログ小説-映画のような人生を-電話-あらすじ

 ぼくは千秋さんと別れ、自分の部屋に戻った。部屋のペンキは乾いたようだ。ぼくは刷毛を手に取り、たっぷりと黒いインクを付けた。そしてボードレールの一編の詩を壁に描く。その詩は何故かぼくの耳にずっと残っていた。

  ぼくの青春は闇の嵐だけだった。
  太陽の光はここかしこにあったのに、
  雷と雨がめちゃくちゃにして、
  ぼくの庭には赤い果実は少しもない。

  ほら、物思いの秋が来て、
  シャベルと熊手を使わなきゃ、
  浸水しているこの土地を耕したいけど、
  水のやつ、墓穴のような穴作る。

  誰が知る、ぼくの夢見る新しい花々達が
  洗われた河原のような荒れた地に
  力を与える神秘の糧になるのかどうか、なんてこと。

  ——苦しいのさ!時が命を蝕んで、
  そしてぼくらの心臓を侵食していく見えない敵が、ぼくらが失う血液を吸っては育ち増殖する

 すべてを書き終えた後、ぼくはふと思いつき、その詩の上に人生は一行のボードレールにも若かないのか? 本当に? くたばれ、ぼくの阿呆の一生! と赤いペンキで上塗りした。自分の名前をでっかくその横に付け足す。

 ぼくはここにいる。ぼくは生きている。生きている以上、今やれる事をやるまでだ。

 電話の受話器を持ち上げ、覚えている電話番号に無心で掛ける。こんな夜中でもきっと起きているはずだ。コールが長く続く。十回目のコールの時に相手は出た。

「もしもし」

 ぼくの声は震える。

「もしもし。あ、春人じゃない」

 母の声は覚えている声よりも少しだけ柔らかく、そして優しかった。

「言いづらいことなんだけどさ……」ぼくは言いづらくなる前に真っ先に自分の病気の事を伝えた。母の顔が青ざめていくのが声からわかった。数秒の無言の後、母は言った。

「元気な体に産んであげられなくてごめんね」

 それから母は電話の前で泣き崩れた。代わってあげられなくてごめん。辛い思いさせてごめん。ごめん。ごめん。様々なごめんが母の言葉から溢れ出た。

 その一言一言にぼくはううん、産んでくれてありがとうと返した。ぼくはあなたの子供に生まれたことを後悔していません。その事が、今、わかりました。産んでくれて本当にありがとう。愛に気がつかず、愛し返すことが出来なくてごめんなさい。

 大好きです。お母さん。

 母は父に電話を渡した。父はいつものように冷静を装っていたけれど、声は震えていた。

 なんだ。ぼくは独りぼっちじゃなかったじゃないか。電話をかければぼくの事をこんなにも大切にしてくれている人がいた。アレクサンダー・グラハム・ベルさん、ありがとう。自由に動けなくなってしまった体で両親に会いに行けないのは残念ですが、あなたのおかげで両親と心がつながりました。

「お父さん、お母さんの事を大切にね」と電話を切る前に父に言った。

「言われなくてもわかっている」その言葉が本当に心強かった。ぼくは安心して電話を切った。

 ありがとう、お父さん。

【ブログ小説】映画のような人生を:第三十七章「電話」あとがき

ブログ小説-映画のような人生を-電話-あとがき

さて、何について語りましょうかね。電話のことか、ボードレールのことか、それとも芥川龍之介の或阿呆の一生についてか。

今回はわかりやすく章分けして書いていきます。

ブログ小説の時代背景

まずは電話について友人に言われた事。

あれ?この作品の時代背景っていつ?ケータイ電話ないの?

です。

僕としては黒電話の時代のつもりで書いていました。ケータイ電話がない時代を思い浮かべながら。でも、それが上手く表現出来ていなかったんですね。

今の僕らにとってはケータイ電話って当たり前のように身近にあって、電話と言えば、ほぼケータイ電話を指すものだと思います。

ただ、その意識を持つ読者に対して、黒電話しか無かった時代を表すのってどうやったら良いんですかね。

この時代にはケータイ電話はまだない」みたいな事を登場人物に話させるのもおかしいし、「1984年のことだ」みたいな不必要に年代を確定させるような記述もしたくないのです。

かと言って、僕の大学生時代は普通にケータイ電話がありまして、今みたいなスマートフォンではないですが、ケータイ電話でやりとりする事が日常でした。

それでまぁ、お笑いをやっていた僕はケータイ電話のアドレス帳が500件以上あったんですよ。

ただ、その500件はほとんどが友達でもなんでもない人達。子供が亡くなって絶望に打ちひしがれている時に、そのアドレス帳を見て誰にも電話がかけられないと思った時の圧倒的な孤独感がこのブログ小説のモチーフとなっております。

それを何かに書こうと思った時に、ケータイ電話だと一つの箱でしかないじゃないですか。ある程度の厚みが欲しかったんですよね。アドレス帳がびっしり埋まっているのに、誰にも繋がっていないという孤独を表すための厚みが。

なのでこれを書こうと思った時に、ケータイ電話がない時代の方が良いなと思ったのです。

でもまぁ、友達に指摘されてから、やっぱりケータイ電話がないと不自然なのかな?と思って全部を書き直した第二稿というものもあります。

今回、ブログ小説を掲載しようと思った時、そのどちらを出すべきか?と迷ったんですが、やはり僕が人生で最初に書いた方を出すべきだろうと思いました。

なので時代背景はケータイ電話がまだ普及していないけれど、公衆電話とかはあったぐらいの時代だと思ってくださいませ。作品内で表せられていたら良かったんですけどね。力及ばず。

ボードレールの詩について

今回の章の中に、伊波が壁にボードレールの詩を書くというシーンがありました。そこに出てきた詩は『悪の華』という作品の中の『敵』というタイトルの詩です。

僕はたまーに詩を自分で書いたりしますが、それが始まったのもボードレールの詩からでした。

前回お話したように、野島伸司信者だった僕は、中学生で心の病気にかかり、声が出なくなって入院しました。その時に野島伸司詩集という本をプレゼントされてひたすらその一冊だけを読んでいたんですね。

詩って不思議なリズム感だなぁ〜。なんて思いながら読んでおりまして、その時はまだ読むだけだったのです。いわゆるROM専です。(Read Only Member)

そんなロム専だった僕が書くようになったのは、芥川龍之介の遺作『或阿呆の一生』の中に「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という表現があったからです。

その作品でシャルル・ボードレールというフランスの詩人を知る事になった僕は、『悪の華』という生前に彼が残した唯一の詩集を手に入れました。

悪の華。なんとも中二病をくすぐる名前じゃないですか。しかも内容も悪魔だの、吸血鬼だの、ものすんごくそそる内容だったのです。

かっちょえぇーーー!!

素直にそう思いました。そして自分でも書いてみたい!と思った僕はノートに詩を書き貯めることになるのです。

ちなみに今回、伊波が書いた詩は誰の翻訳だったっけな?と探してみたのです。『悪の華』は翻訳者が違うものをいくつか持っているので。

でもね、どこにも無かったんですよ。それでふと思い出しました。

著作権的にどうなの?と思ったので、フランス語のボードレールの詩を自分で翻訳した事を。

Ma jeunesse ne fut qu’un ténébreux orage,
Traversé çà et là par de brillants soleils;
Le tonnerre et la pluie ont fait un tel ravage,
Qu’il reste en mon jardin bien peu de fruits vermeils.

Voilà que j’ai touché l’automne des idées,
Et qu’il faut employer la pelle et les râteaux
Pour rassembler à neuf les terres inondées,
Où l’eau creuse des trous grands comme des tombeaux.

Et qui sait si les fleurs nouvelles que je rêve
Trouveront dans ce sol lavé comme une grève
Le mystique aliment qui ferait leur vigueur?

— Ô douleur! ô douleur! Le Temps mange la vie,
Et l’obscur Ennemi qui nous ronge le coeur
Du sang que nous perdons croît et se fortifie!

これね。世界的に死後50年で著作権が切れますが、誰かが翻訳した場合はそこからまたその人の著作権発生する…みたいな感じだったんですよ、確か。今の日本は70年ですけど。

なので、自分で訳しちまえと。そんな僕は大学時代に第二外国語でフランス語を選択していたのでした。妙な所で役に立つものだなぁ〜。

でも個人的には堀口大學が訳した悪の華が一番かっこいいと思います。あくまでも個人的に。まぁ、僕の訳は安藤元雄の訳に近いです。読みやすいのはこっち。

ちなみに、この「敵」というのは、時間の事なのですよ。時間をこのような形で詩に出来る、ボードレールはかっちょえぇです。時は金なりが座右の銘の僕の胸にズッキューンです。

ではでは、【ブログ小説】映画のような人生を:第三十七章「電話」でした。

野口明人

ここまで読んでいただき本当に、本当にありがとうございました!

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【ブログ小説】映画のような人生を:次回予告

ブログ小説-映画のような人生を-次回予告

注意:

ここから先は次回の内容をほんの少しだけ含みますが、本当に「ほんの少し」です。続きが気になって仕方がないという場合は、ここから先を読まずに次回の更新をお待ち下さいませ。


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クリックして次回の内容を少しだけ表示する

 ぼくは痛む体をひきずりながら、部屋の片づけをした。

次回へ続く!

【ブログ小説】映画のような人生を:今回のおすすめ

悪の華
3.6

著者:ボードレール
翻訳:堀口大學
出版:新潮社
ページ数:484

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