「目には目を歯には歯を」という言葉を聞いた時、あなたが思い浮かべる意味は「やられたらやり返す」というものではないでしょうか?
その「やられたらやり返す」と聞いた時に、僕が思い浮かべてしまう言葉が、ドラマ『半沢直樹』の「やられたら、やり返す、倍返しだ!」なのですが、こうなってくると「目には目を」という言葉を最初に考えた人の意図に合わないのではないか?というのが今回の話。
目には目を最初に考えた人、覚えていますか?
「目には目を」を検索してみた時に、結構な数の解説をしているサイトを発見したのですが、その中でいくつか、あれ?あれれ?と思う事があって、イエスの言葉と書いてあるサイトがあるんですよ。
目には目を最初に考えた人って、これ、授業でやったよね?あれ、違う?僕の中学校だけ?
確か中学生の歴史の教科書にも載っているぐらい有名な出典だと僕は思っていたんですが、勘違いしている人が平然と解説していたのが気になったので、僕が8年前に書いた文章とともに紹介したいと思います。
8年前の僕は、偉そうに語ります。
あなたがもし、人の成功や活躍を喜べない人であれば、「目には目を歯には歯を」の本当の意味を知ればきっと幸せになれるでしょう。と語ります。
ですが、あえて言おう。あの頃の僕は究極に気持ち悪いと。相当精神がやられていたのだと。人に偉そうに語ることで、自分自身に向かって言っていたのだと。
ということで、これを読んだ事であなたが幸せになるかどうかは知りませんが、明日の話の種になるかなと思って書いていきたいと思います。困った時の豆知識。誰かの相談にのってあげている時の助けになるかもしれません。
「目には目を歯には歯を」は実物が現存する…
「目には目を歯には歯を」は実物が現存する世界最古の法典、ハンムラビ法典の中の言葉です。ハンムラビ法典。なんか聞いた事あるでしょ?
「実物が現存する世界最古の法典、ハンムラビ法典」
僕が中学生だった頃はそう教科書に書いてありました。でも今は違うんですね。ウル・ナンム法典ってのが現存する最古の法典なんだそうですよ。教科書って書かれている事よく変わりますよね…。
ちなみに、ハンムラビ法典は紀元前1750年頃にバビロニアを統治していたハンムラビ王が発布したものです。
つまり、「目には目を歯には歯を」を最初に考えた人はハンムラビ王だとされています。
んで、ですよ。考えて見て下さい。国の王様が望むことってなんですか。自分の時代が長く続くことでしょう?
それなのに、やられたらやり返せ!!なんて民衆の反骨心を煽るような事を法典で定めるわけないじゃないですか。
なので、現代の人が思っている「目には目を歯には歯を」が「やられたらやり返す」と同義というのはちょっと違うのです。
「目には目を歯には歯を」を法律で定めた意味
復讐はさらなる復讐を呼んでしまいます。やられたらやり返したら、さらにそのやられた人がもっとすごい力でやり返してくる。これが人間の復讐心。
「倍返しだ!」って半沢直樹も言ってたじゃないですか。
だから「やられたらやり返そう」って事を「目には目を歯には歯を」は言いたいわけではないのです。
もし、目をやられたら、目を罰す。もし、歯をやられたら、歯を罰す。そこまでで復讐はおしまい。それでチャンチャンにしようぜ!それ以上はやってはならないよ!という事をハンムラビ王は定めたのです。
そしてまぁ、これの言いたい所はどっちかと言うと犯罪の抑制で、同等の罰を与えるから、人になにかする前に、自分の身にそれが起きたらどうなるかを考えてくれよな!って事だと思うのです。
「目には目を歯には歯を」は間違っている?
んで、この1750年後ぐらいにイエス・キリストは、この言葉を引用してこんな事を言うのです。
右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい。
引用:「マタイによる福音書」第5章39節
「山上の垂訓」として有名らしいです。
いや、そもそもキリストさんは、ハンムラビ法典を引用したわけではなく、キリスト誕生前の聖書である旧約聖書のエジプト記に「目には目を、歯には歯を、足には足を」と書かれていたのを引用しているわけなんですがね。
旧約聖書の誕生は諸説ありますが、あれは人々がよりよく生きていく為に必要な人類の知恵をその時代、時代で取捨選択して書かれていった経緯があるんで、いつ書かれたとは言えないんですが、原型の完成は一般学説では紀元前10世紀頃とされています。
またキリスト教的にはモーセさんが書いたと解釈する事もあるらしいので、その場合でも紀元前16世紀頃でしょう。
まぁ、どちらにせよハンムラビ法典の方が古いのではないか?となるんですが、そのずっと長いこと言われてきた「目には目を歯には歯を」という考え方に間違った解釈をしている人が多くなったとイエス・キリストは感じたわけです。
間違った解釈とは、つまり現代の人も考えてしまっているような「やられたらやり返す」ってやつです。
そこでイエス・キリストはもっとわかりやすい表現で戒めるわけです。
悪人に報復してはならないよ。右頬を打たれたら、右頬を打ち返すのではなく、左の頬を差し出せる人間になろうね。と。
イエスさん、良いこと言う!!と8年前の僕は思いました。そこで僕は次のような文章を別のブログに書いたのです。今はもうそのブログ自体が消失してしまったので、その時の下書きを引用させてもらいます。
内容がちょっと重複する所もありますが、そこらへんは読み飛ばして下さいませ。
「目には目を歯には歯を」の本当の意味を8年前に知って
タイトル「同調する心」
人の成功や活躍を喜べる人間になりなさい。
人は誰かと同じでありたいという本能を持っています。
これはいい意味でも悪い意味でもです。
「目には目を、歯には歯を」
これはハンムラビ法典の中にある言葉ですが、これは同じだけの報復をしなさいという意味ではありません。
目を傷つけてしまったら、自分の目を傷つける罰を受けます。
歯を傷つけてしまったら、自分の歯を傷つける罰を受けます。
という刑罰の話です。
つまりは、それ相当の報いが自分に返ってくるということです。
もう一度言いますが、いい意味でも悪い意味でもそうだと思います。
誰かの愚痴を言うということは、誰かに愚痴を言われても構わないということを表します。
たとえば、一日不機嫌に過ごしてみてください。おそらくあなたの周りも不機嫌になっていくでしょう。
誰かに怒りを向けてみてください。その相手もそれ相当の怒りであなたを見てくるでしょう。
面白いことに人間は誰かと同じでありたいという本能に逆らえません。
そのことを逆手にとってみましょう。
誰かに愚痴を言われたとします。それはつまりあなたがどこかで愚痴を言っている事を表します。
誰かが不機嫌だったとします。それはあなた自身も不機嫌だということを表します。
誰かが怒り狂っているとします。それはあなた自身も怒り狂っている事を表します。
話がちょっと極端かもしれませんが、周りの状態がどうであるかを見ることで、あなた自身が普段どのように生活しているかがわかってしまうのです。
ただし、この話は何もあなた個人に限った話ではありません。
人間、みんなが持っている同調したいという本能です。
つまりは、いいようにこの本能を活かせば、あなたの生活をちょっとだけ幸せにすることもあなた自身の手で出来るという事です。
あなたは人の成功を喜ぶことが出来ますか?あなたは人の活躍を応援することが出来ますか?
世の中、どこを見ても競争社会です。
競争することで成果を上げようとしています。それが資本主義の有り方です。そのような教育で育て上げられてきた者にとって、
「人の成功は多くの人の失敗の上に成り立っている」
と思い込んでしまいます。
頭の中にあるのは表彰台しかないのです。
1位になるには2位、3位に勝たなければならない。
業績を上げるためには他の人を蹴落とさなければならない。
そのように思い込んでいます。
その結果として、人の成功はどこかで妬みに代わり、人の活躍に嫉妬してしまう自分がいることになります。
この状態のままでは、自分が成功した時にも誰かが妬み、嫉妬されることになります。
その結果、自分は別にあの場所まではたどり着かなくていいやという気持ちが生まれ、中途半端な結果に満足することになるでしょう。
地位や名誉を手に入れたってどうせ、人に恨まれるんだから。
きっと心のどこかでそんな風に思ってはいませんか?
それは地位や名誉を手に入れた人の事をあなたがそう思っているからです。
意識を変えてみましょう。
人の成功や活躍を心の底から喜べる人になってみてください。
あなたのその喜んでいる姿を見て、成功した人は「今度はあいつが成功した時に自分も喜んであげたい」という同調の心が生まれます。
人の欠点ではなく長所を探せる人になってみてください。他人もあなたの長所を探すようになるでしょう。
愚痴を言うのではなく、よい所を褒めるようにしてみてください。きっと愚痴を言いたくなるような人のあなたへの態度は変わるはずです。
人に敵意を見せられて喜ぶ人はいないはずです。
あなたが嫌だなと思っている人がいるのであれば、嫌だなと思わせているのはその人ではなくあなた自身なのです。
嫌だなと思っている人に対する接し方を好意的なものに変えてみてください。相手もきっとあなたに対して好意的な接し方に変わるはずです。
相手に変化を求めても意味がありません。
相手に変化を求めているということは、相手もあなたに変化を求めているという事だからです。
相手に変わってほしいと思うのであれば、あなたが先に変わってほしいと思う行動をとるのです。
あなたがもし、会社の社長ならば競争させるのではなく、一人の成功を喜べるチームを作るようにしましょう。
一人の成功をみんなで応援できる会社にしましょう。
競争社会は出来る人間を作るには最適だとは思いますが、出来ない人間を作り出す環境でもあるのです。
結果的に会社全体では、不穏なムードを作り出してしまい、成果は思ったほど上がらないでしょう。
人との比較を明確にする会社ではいけないのです。人の成功を会社みんなでサポートする会社でなくてはならないのです。
一人の成功は九人の失敗ではありません。十人成功することだって可能なのです。
競争社会ではそれは生み出せません。
みんながみんな他人の成功を願う会社。
出来ない人間がいたのであれば、みんなで出来るようにしてあげられる会社。
同じチームにライバルはいりません。
別に共産主義的な事をやれというのではなく、成功する喜びを、何にも代えがたい目標に出来る会社がいいということです。
そのためには人の成功や活躍を喜べる社員を作り上げることが一番大事だと思うのです。
…偉そうなことを言ってみました。
最近、僕が実体験して感じたことを文章にしてみました。
人の成功とかを喜べる人間になることが、自分の成功への第一歩なんだな~と僕は思います。
そう考えてから、人生がちょっと明るくなりました。
野口
これが8年前にコンサルタント的なことをやっていた僕の記事です。…なんか気持ち悪いっすね。うん。自分の文章じゃないみたい。
この数ヶ月語、僕はコンサルタントをドロップアウトしました。人と深く関わることを辞めたのです。
目には目を歯には歯をのまとめ
まぁ、今回の記事で何が言いたかったのかと言えば。まとめておきましょう。
昔の人が「目には目を歯には歯を」に込めた思いが1700年の間に誤解されるようになって、イエス・キリストがそうじゃないんだと正したわけです。
しかし、それからもう2000年ぐらい経って、再び人類は同じような誤解をしているわけで、人間って同じことを繰り返すんだなと。
僕は8年前に悟ったわけですが、それでもこの8年の間にそんな事を書いた事さえ忘れて、人を憎んだり、やられたらそれ以上の事をやり返さねばなめられる!なんて思った事もあったわけです。
んで、あたかも最近すごいことに気がついたかのように、
↑こんな記事を書いていたわけですよ。
僕も全然成長していませんね。何か大きな事に気がついたとしても、人は忘れる。なので繰り返し、繰り返し、何度も思い出す事が必要なのだなと。
という事で、あなたがもし誰かの相談に乗った時など「コイツまた同じことで悩んでいるな」と思うこともあるかもしれませんが、その時はぜひ寛大な気持ちで話を聞いてあげてくださいませ。
そして同じ話でも良いので、何度も何度も聞いてあげて、同じアドバイスを色んな形で何度も何度も教えてあげる。
それがきっと人とうまく関わっていくことなのだと僕は思いました。
つまりは、ブログのネタ切れだったので僕も同じ話を別の形で書こうと思った次第です。どうもすいません。
ではでは、ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
「目には目を歯には歯を」の本当の意味はなんだ?という話でした。
野口明人
ふう。それにしても8年も前の記事のメモを取っておいて助かったなぁ。書き残すということは本当に大事。
おまけ:目には目薬を
ども。今回は「目には目を」という記事を取り上げましたが、最近マジで目が痛いです。
朝4時半に起きてパソコンをつけて、そこから夜の2時前ぐらいまでパソコンの画面と闘っております。
途中で休み休みやってはいるのですが、鏡を見てみると、目の中が充血していて真っ赤。ドラキュラかよ!と自分でもビックリしております。
なので最近、「アイマッサージャー」という物を買ってみました。
こんな感じのやつ。近未来的デザイン。サイバーだね。
これつけるとほのかに温められながら、グイングインと目をマッサージしてくれるのです。気がつけば気持ちよすぎて寝ちゃってる!なんて事も多々。
良い買い物をしたー!と、かなりのヘビーローテションで使ってたんですよ。使ってはぐーすか眠り、パソコンで疲れたら椅子の上でこれつけて休憩しては眠りみたいな。
んで、これってUSBケーブルで充電して使うんです。でもね、ケーブル挿す所が微妙な場所にあるんですよ。目に当てる所を二つ折りにした所に。
なんかUSBケーブル挿しにくいな〜なんて思いながら使っていたら、ある日パキッと嫌な音がしてね。
USBケーブルの先っちょが折れてしまって、充電できなくなったのです。そしたらもう単なる重たいアイマスクでしかないのです。
ほんの1週間の命でした。
くそう…。新しいの欲しいけど、結構いい値段するんだよな。
…ということで最近は、普通に目薬をさしています。目には目薬を。
それではまたどこかでお会いしましょう(´・ω・`)ノシ